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おろかさを さとった者は それだけ賢い
1月25日は宗祖法然上人のご命日にあたります。先ほど読んでいただいた「一枚起請文」は、お亡くなりになる2日前に弟子の源智上人に請われて書き残された御遺訓(遺言)です。
この中に
「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知の輩に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」(一代の法=釈尊が説かれた教え、即ち教典。愚鈍=おろか。尼入道=在家のまま髪を剃って仏道に入った女性、尼女房)
とありますが、これについて大本山増上寺御法主であられた故藤堂恭俊台下の著書によりますと
「念仏によって往生できるという確信を持った人は、たとえ釈尊が説かれた仏法を繙き、よくよく学びとったとしても、一文もわきまえず、尊いみ心を捉えることの出来ないおろか者であると、みづからを卑下し、在俗の生活をしながら、ただ髪を剃っただけで、仏法についてなに一つ心得るところのない女性と何等変わらない私であると思いなさい。なぜならば、かりに、「一代の法をよくよく学びとった」としても、阿弥陀仏の智慧とくらべたならば雲泥の差があるから、こざかしく自分の心得した学問を鼻にかけてはならないのです。ましてや、念仏によって救われ、生かされるということは、所詮念仏した人の上におのづから開かれてくる冷暖自知の事実でありますから、知識によって仏法をきわめたいと思いこんでいるような学者の行いをしてはなりません。つまるところ、こざかしい人間のはからいを、かなぐり捨てて、ただただ二尊のあわれみを仰ぎ信じて、念仏の一行にはげむより外ないのであります。」と解説されています。
少しばかり物知りでも、地位や名誉があっても、阿弥陀様から見たらそのようなことはあまり重要ではないということでしょう。それよりも、謙虚な気持ちになって、素直に、純粋に心の底から救いを求め、自らの愚かなることを認め(愚者の自覚のもとに)お念仏をお称えすることのほうが勝れた行なのです。