如来寺のご紹介
行事・法要のご案内
インフォメーション
境内のご案内
|
本堂
現在の本堂は開山500年記念事業として書院・庫裡・寺務所と合わせて大改修され、平成9年4月に落慶されました。
柱や梁などの一部に、寛保2年、そして宝暦12年の今市宿大火を免れた木材が使われております。
|
|
地蔵堂・車止め地蔵尊
昔、鎌倉2位の禅尼・北条政子が不思議の奇瑞あって、日光山に因縁の地があることを悟り、安達籐九郎盛長を使いとして、丈6尺
余りの地蔵尊、閻魔大王像、倶生神像の3つの像を奉納することにしました。盛長はこれらのご尊像を車に乗せ、日光山を目指して登って
きましたが、今市宿の中程に至ると車が急に重たくなって動かなくなりました。盛長は車を道の傍らに寄せて安置の場所はこの地(中町)
であると定めたところ、不思議なことに車が自由に動かせるようになり、その地に車止め地蔵尊として祀りました。
後に、日光山に東照宮が造営され、今市宿が伝馬駅所になると、当寺の境内に地蔵堂を建立し、
中町にあった地蔵尊を本尊として安置しました。宝暦12年(1762年)に今市宿が大火に見舞われ、市中の大半が焼失。この時地蔵堂も延焼し
焼け落ちましたが、焼け跡から3つの像が何事も無かった様に出てきて人々を驚かせたと云います。その後暫く、3つの像は本堂に安置されて
いましたが、平成19年(2007年)5月に地蔵堂が再建・落慶され245年ぶりに甦り地蔵尊が安置されました。
|
|
観音堂
堂内に安置されている聖観世音菩薩像は、聖徳太子の御作と伝えられ、数十年来、本堂内に安置されていましたが、昭和9年
(1934年)8月に今市仏教婦人会にて多額の費用を投じ、観音堂が再建立され、本尊として安置されました。
平成7年(1995年)9月に台風の影響で樫の木が倒れ、建物が半壊しましたが、その後修復され、今に至っています。
現在、下野33観音霊場の第4番札所として参詣者が繁く訪れます。
|
|
鐘楼堂
寛永18年(1641年)に鐘楼堂が建立され、安西治左衛門らによって梵鐘が寄進されました。
元禄13年(1700年)の春より、昼夜の時の鐘が撞かれるようになりました。
文化6年(1809年)、大橋覚左衛門忠金らが鐘を改鋳して寄進しました。
現在は、大晦日の除夜の鐘と9月の秋彼岸に日光ユネスコ協会が主催の「平和の鐘を鳴らそう」という行事で鐘が撞かれています。
※現在の鐘は、太平洋戦争時に、金属回収令により鐘を供出したため、昭和39年に壇信徒の方々によって『平和の鐘』として新たに寄進されたものです。
|
|
星之宮
当寺の境内墓地にある星之宮は、滝尾神社(日光市山内)の別当であり、当寺の鎮守(守護神)として虚空蔵菩薩を祀っています。
現在の鎮守は明治16年(1883年)4月、当寺第24世徹譽上人の造立になります。ここには他に稲荷明神・山神石祠の2社があります。
|
|
弁天堂
容色麗しい若い女神が琵琶を弾いているお姿の弁天さまは、弁才天といい弁財天とも書きます。
また大弁功徳天・大弁才天女・妙音天・美音天などとも呼ばれます。
弁舌の才を助け、知恵の福を与え怨敵を除いてくれるところから、音楽・技芸・福徳財宝の神として信仰をあつめました。
一説には河川を神格化したという信仰から水辺にお社をまつるようになったともいわれます。如来寺の弁財天は日光市で行っている
『今市宿七福神めぐり』の1つにもなっております。
平成26年弁天堂改修工事の様子はこちら
|
|
如来寺の化け桜
むかし、当寺は桜の名所として日光参詣の大名方が見物に立ち寄るほど有名でした。
境内には1丈2尺(3.6m)から2丈2尺(6.6m)周りの老齢が9本もあり見事な花を咲かせ、
その他、松・梅・桧・杉など1,000本以上もあったということです。
山門前にはこの地方で1番早く花を咲かせる樹齢200年を越す桜の名木があり、『如来寺の化け桜』とよばれ、近郷の人々に親しまれて
きました。この名木の空洞のなかには、昔から弁天さまの使いの白蛇が
|
棲みついていたと伝えられ、時折この木の廻りから悲しい泣き声が聞かれたという話などが残されております。
そのすぐ近くに弁財天がまつられ、ほこらは定かではないが、元禄のころに建てられた古いお社といわれます。
古くから湖沼や淵の主が蛇という伝説が多くあります。またお稲荷さまの狐のように、蛇は弁天さまのお使いとされ、
蛇が水を司り雨を自由に降らせることが出来ると信じられてきました。
もしかするとこの白蛇は、この弁天さまのお使いであったのかも知れません。
|
|
如来寺開山暁譽上人五輪塔
五輪塔は日光市の有形文化財に指定されております。
五輪塔ですが、空・風輪はなく、火輪は水輪・地輪と合っていません。
地輪の正面に、次のように刻まれています。
永正十三丙子
開山暁譽上人
四月十六日
暁譽上人は、常陸国(茨城県)瓜連の浄土宗常福寺第4世超譽上人の
高弟です。文明10年(1478年)諸国を行脚して、ここ今市に来ました。
如来寺を創建し38年間布教し、永正13年この地に没しています。
|
|
御婆堂
旧地蔵院跡周辺に御婆堂が残ります。
御婆堂建立の年代は定かではありませんが、御婆(おんば)は奪衣婆の俗称で、冥土にゆく途中にある三途(さんず)の川の
ほとりの衣領樹の下に住み、亡者の衣を剥ぎ取り、樹上の懸衣翁と共にこれを衣領樹にかけ、枝のしなり具合で亡者の
罪業の軽重を試むことが、中国成立の『十王経』やわが国の『法華験記』などに見え、葬頭河婆(しょうずかのばば)の
別称があります。日本では民間信仰と習合し、路傍に道祖神の一種である姥神としてまつられるこもあります。
(『仏教大辞典・龍谷大学』、『岩波仏教辞典)
|
|
徳本上人(とくほんしょうにん)名号碑
荒行で知られる紀州の高僧徳本上人の木像、名号碑が本寺には御座います。
名号碑は本寺山門前に御座います。碑銘には…
(正面) 南無阿弥陀仏 徳本(花押)
(裏面) 文化十四丁丑二月 紀州徳本行者於当山三日三夜
念仏修行併勧戒受恩
(側面) 惣町内百人講中
銘文は、文化14年(1817年)2月、徳本上人が当山に入り、日時は未詳ですが、3日3夜にわたり、
今市宿惣町内の百人講中とともに厳しい宗法相承の修行が行われたことを表しています。
【徳本上人(とくほんしょうにん)とは?】
徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧です。庶民の苦しみを救うべく、厳しい修行を行いながら『南無阿弥陀仏』を唱えて
日本全国を行脚しました。更に詳しい情報は、こちら(和歌山観光情報HP)に掲載されています。
|