浄土宗 星顕山 光明院 如来寺(栃木県日光市今市)ホームページ

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如来寺の宝物等のご紹介


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本尊 阿弥陀如来坐像
本尊 阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信作と伝えられています。

阿弥陀さまも、お釈迦さまも共に仏さまであり、仏とは悟りを開いた方をさす。悟りの世界では物事の成り立ちが手に取る ようにわかり、悩みも苦しみもない自由で平安な世界です。
お釈迦さまは、今からおよそ2500年の昔、悟りを開いて仏となり、多くの人々を救うために教えを説かれました。その教えが 仏教であり、その中でお釈迦さまは、遠い過去に悟りを開き、今も人々に救いの手をさしのべている仏さまの事を説き教え られました。そのお方こそが阿弥陀さまなのです。

-『阿弥陀さまとお釈迦さま』浄土宗ホームページより-

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地蔵堂・車止め地蔵尊
昔、鎌倉2位の禅尼・北条政子が不思議の奇瑞あって、日光山に因縁の地があることを悟り、安達籐九郎盛長を使いとして、丈6尺 余りの地蔵尊、閻魔大王像、倶生神像の3つの像を奉納することに しました。 盛長はこれらのご尊像を車に乗せ、日光山を目指して登って きましたが、今市宿の中程に至ると車が急に重たくなって動かなく なりました。盛長は車を道の傍らに寄せて安置の場所はこの地(中町) であると定めたところ、不思議なことに車が自由に動かせるようになり、 その地に車止め地蔵尊として祀りました。後に、日光山に東照宮が 造営され、今市宿が伝馬駅所になると、当寺の境内に地蔵堂を建立し、 中町にあった地蔵尊を本尊として安置しました。
宝暦12年(1762年)に今市宿が大火に見舞われ、市中の大半が焼失。この時地蔵堂も延焼し 焼け落ちましたが、焼け跡から3つの像が何事も無かった様に出てきて 人々を驚かせたと云います。その後暫く、3つの像は本堂に安置されて いましたが、平成19年(2007年)5月に地蔵堂が再建・落慶され245年 ぶりに甦り地蔵尊が安置されました。

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徳川将軍家位牌
寛永9年(1632年)4月、3代将軍徳川家光公が日光東照宮を訪れる際に、当寺の境内に御殿を造立し、宿泊場所としました。 父である2代将軍徳川秀忠公の喪に服し、同月17日の初代将軍徳川家康公の命日に井伊直孝(上野白井藩主)を代わりに参らせ ました。家光公自らは当寺に滞留し、荊沢村13石余・水無村15石余・土沢村の内にて5斗余、合わせて朱印寺領30石を 寄進され、これより当寺は幕府の厚い庇護を受け、将軍家累代の位牌を安置しました。
(現在、本堂内に徳川将軍家位牌所として、家康公から12代将軍徳川家慶公の位牌が祀られています)

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聖観世音菩薩像
堂内に安置されている聖観世音菩薩像は、聖徳太子の御作と伝えられ、数十年来、本堂内に安置されていましたが、昭和9年 (1934年)8月に今市仏教婦人会にて多額の費用を投じ、観音堂が再建立され、本尊として安置されました。
平成7年(1995年)9月に台風の影響で樫の木が倒れ、建物が半壊しましたが、その後修復され、今に至っています。 現在、下野33観音霊場の第4番札所として参詣者が暫し訪れます。
※現在は通常公開は行っておりません。

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二宮尊徳位牌/箱膳
二宮尊徳〔天明7年(1787年)〜安政3年(1856年)〕は、 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に 生まれ、江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と 呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家です。尊徳の 葬儀は当寺で執り行い、法名を「誠明院功譽報徳中正居士」と 授与しました。
今市報徳役所日記の記録によると、安政4年(1857年)5月4日に 嫡子である二宮弥太郎と佐藤忠助が当寺へ来られ、尊徳の位牌が 入った厨子と膳椀・茶椀台を納め、供養料として金百疋(現在の 金額で約10万円)を進じました。墓所は当山に隣接する報徳二宮 神社の社殿の裏にあり、栃木県の史跡に指定されております。
※現在は通常公開は行っておりません。

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山椒柱
大庫裡に立つ柱は梨の大樹で、長さ1丈8尺(5.5メートル)、周り9尺5寸(2.9メートル)あります。
慶長5年(1600年)に信心深い千本木村の豪農・清右衛門が 寄進されたものであると伝えられています。
3代将軍徳川家光公が日光東照宮に参拝の折りに当寺で休息した際 光り輝き品格と見事さに打たれて柱の材質などについて問われ、 「この産所は?」と聞かれた案内の僧が誤解して「山椒」と答えたことから、以後、山椒柱と呼ばれるようになりました。

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庚申猿
大正11年(1922年)頃、足尾町(日光市)の庚申山から60年目 毎に、八方に向かって猿が遣わされると言い伝えられていました。 鬱蒼とした当寺の森に大きな猿が渡って来ているという噂が流れて 町の話題となり、会津口で折から催されていた発火演習の銃声に 驚いて大谷川を越え、当寺の森に入ったという話もでました。 当寺の周辺から町中にも出るということで、猟師達が猿狩りを することになりました。猟師達に追われた猿は逃げ場を失い当寺の 西側にある杉の大木の頂き近くに潜みました。この時、猟師の一人が 猿を発見し鉄砲をかまえると、猿は手を合わせて拝む仕種をしましたが、 猟師は容赦なく撃ってしまいました。撃った猿を解剖すると、お腹に 子供を抱えたはらみ猿でした。猟師は家族と共に、猿の肉を食べ ましたが、それから間もなくして猟師一家(猟師、妻、子供)は次々に 奇病に取りつかれ相次いで亡くなってしまいました。ちょうど同時期に、 今市で伝染病が蔓延して町民を不安に陥れ、猿の祟りではないかと噂が流れました。

またあの猿は、足尾の庚申山から来た庚申猿ではないかと囁かれ、町では神の使いである猿を殺した 不安にかられました。猿の逃げ上った杉に注連縄を張り庚申塚の碑を建立し祀りましたが、それから毎年伝染病が流行し、 町民は猿の祟りを信じて止みませんでした。猿の剥製を作り、教材用として今市小学校に寄付されました。 しかし、それから40余年を経た昭和38年〜9年頃、再び猿の祟りという話が起き、当時の校長先生が3代続けて 足の病に悩まされました。協議の末、猿の霊を慰めることとなり、当寺に猿の剥製を納めて供養することとなりました。 今現在も、本堂内に飾られております。

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賽銭箱
二宮尊徳の帯刀裃姿の遺体は、朱と塩(一説に焼酎)で漬け、益子焼のカメに納め桧の2寸板で囲った立棺に納められ、 葬儀の折り、本堂入り口の賽銭箱の上に安置して行われました。 当時まで葬儀は下寺で行われ、棺を安置する棺台はなかったので、こののち本寺での葬儀に度々使用されています。

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靄香iあいがい)の絵
当寺には、靄高フ絵の存在が語り継がれてきましたが、平成の大改修を契機に作品の存在が明らかになりました。
大庫裡の間仕切り杉板戸『松鷹図』は、改修された大庫裡に光彩を放っております。
※高久 靄香iたかく あいがい)
寛政8年(1796年)-天保14年(1843年)
江戸時代末期の南画の大家。
那須郡杉渡戸村(現:栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。
名は徴。
字(あざな)は子遠。
通称は秋輔。
別号に如樵・疎林外史など。

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御内仏(阿弥陀如来立像)
昭和24年12月、突如として襲った今市地震の折、倒壊破損した 如来寺本堂の阿弥陀如来像の胎内から骨片と折り畳まれた文書が 発見されました。それによりますと、『徳川家康公の第8女で、浅野 長晟に嫁された阿姫の遺骨を納めた阿弥陀仏である』とあります。 阿姫の遺骸は、浅草の西福寺に葬られましたが、その母竹姫は 悲しみのあまり、阿姫の御内仏を手許において朝夕供養してきた そうです。当時8世頓誉上人の代に、この阿弥陀仏が、家康公を 祀られた日光山の近くの如来寺に移され、浅野家から毎年30両の 金が当寺に寄進されてきましたが、いつの間にか、これが中止と なったため、この度、浅野家の江戸屋敷に参上し、以前通りに寄附 下さるようにとの願書でした。家康の族葉に阿姫の名はみられませんが、浅野家に嫁したのは 第3女の振姫で別に阿姫とする確証はありません。阿姫の母は市川氏於竹の方(良雲院)甲斐武田氏由縁のものであります。

振姫は初め蒲生秀行に嫁したが、夫と早く死別し、 大阪陣に手柄をたてた浅野長晟に再嫁。一年余で死没した幸薄の姫君で正清院と号しました。元和7年(1621年)12月 振姫の御内仏は、父家康の霊を祀る日光山に近い如来寺に移され、更に同9年振姫7回忌にあたり、将軍秀忠は位牌を 浅草の西福寺に安置し、寺領100石を寄進して姫の冥福を祈らせました。晩年の竹姫は、亡き振姫の供養であけくれ江戸 城内で逝去され、振姫の位牌が安置されている西福寺に葬られました。法号良雲院殿天誉寿清大姉、奇しくも元和8年 には将軍秀忠が日光社参の途次、今市宿に泊し、振姫7回忌の9年には、世子家光が日光に詣でています。   ※現在は通常公開は行っておりません。

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如来寺開山暁譽上人五輪塔
五輪塔は日光市の有形文化財に指定されております。 五輪塔ですが、空・風輪はなく、火輪は水輪・地輪と合っていません。 地輪の正面に、次のように刻まれています。

 永正十三丙子
 開山暁譽上人
 四月十六日

暁譽上人は、常陸国(茨城県)瓜連の浄土宗常福寺第4世超譽上人の 高弟です。文明10年(1478年)諸国を行脚して、ここ今市に来ました。 如来寺を創建し38年間布教し、永正13年この地に没しています。

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徳本上人(とくほんしょうにん)木像
荒行で知られる紀州の高僧徳本上人の木像、名号碑が本寺には御座います。 名号碑は本寺山門前に御座います。碑銘には…
(正面) 南無阿弥陀仏 徳本(花押)
(裏面) 文化十四丁丑二月 紀州徳本行者於当山三日三夜
      念仏修行併勧戒受恩
(側面) 惣町内百人講中
銘文は、文化14年(1817年)2月、徳本上人が当山に入り、日時は未詳ですが、3日3夜にわたり、 今市宿惣町内の百人講中とともに厳しい宗法相承の修行が行われたことを表しています。
【徳本上人(とくほんしょうにん)とは?】
徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧です。庶民の苦しみを救うべく、厳しい修行を行いながら『南無阿弥陀仏』を唱えて 日本全国を行脚しました。更に詳しい情報は、こちら(和歌山観光情報HP)に掲載されています。※現在は通常公開は行っておりません。

善導大師像
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法然上人像
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閻魔王像・倶生神像
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涅槃図
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