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ものの命を いただいて生きる
先日、幼稚園の「お勤め」がありました。これは、毎月1回今市幼稚園の園児が本堂に集まって、「わたしたちのねがい」という標語を唱和したり、阿弥陀様に礼拝し、園長(住職)の話を聞くという行事です。
今月は、「報恩感謝」というテーマの元に話をいたしました。
秋は、お米が取れる日本人にとって特別な季節です。お米だけではありません、栗やぶどう、さつまいも、など豊かな自然の恵みにあふれています。このような季節に、自分をとりまくいろいろなものから受けている恩恵に気づき、改めて感謝の思いをいだくことは大変意味のあることではないでしょうか。
私たちは、食事の前に手を合わせ「いただきます」と言いますが、これは今から食べようとしている食物に宿っている生命力を自分のなかに「いただきます」ということに他なりません。
具体的に言えば、それが加工された食品で、もはや元の形はしていなくても、米なら田圃に実っている様子や、それを生産する農家の方の努力を。肉なら、豚や牛、ニワトリの生きている様子や生産者の方々のことなどに思いをはせながら食べれば、ありがたさが倍増してくるでしょう。
食べ物に限らず、工業製品でも同じです。紙1枚にしても、できあがって目の前にあることが、自然の恵みや数え切れない人たちの努力や労働によってもたらされていることを思うと、有り難い気持ちになってきます。
仏教では「一切衆生悉有仏性」といって、「生きとし生けるものは、すべて仏となる性質を内に持っている」ということですから、私たちは、やがて仏となるかもしれない物の尊い命を受け継いで生きているということです。強いて言えば、私たちはまさに阿弥陀仏の大いなる生命、営みの中に生かされていると言うことです。そのように思って、日々感謝の念を忘れず暮らしたいものです。