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如来寺
(以下、当寺)は、文明年間(1469〜87年)に常福寺(茨城県那珂市瓜連)の
第5世・昇蓮社超譽聖欽上人の高弟であった金蓮社暁譽最勝大和尚によって開かれました。
(暁譽上人の経歴は明らかではありません。永正13年(1516年)4月16日寂し、
お墓は当寺の歴代上人の墓地にあります)
※昇蓮社超譽聖欽上人(しょうれんじゃちょうよせいきんしょうにん)
※金蓮社暁譽最勝大和尚(こんれんじゃぎょうよさいしょうだいかしょう)
本尊
の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信作と伝えられています。
※阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
※恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)
寛永9年
(1632年)4月、3代将軍徳川家光公が日光東照宮を訪れる際に、
当寺の境内に御殿を造立し、宿泊場所としました。父である2代将軍徳川秀忠公の喪に服し、
同月17日の初代将軍徳川家康公の命日に井伊直孝(上野白井藩主)を代わりに参らせました。
家光公自らは当寺に滞留し、荊沢村13石余・水無村15石余・土沢村の内にて5斗余、
合わせて朱印寺領30石を寄進され、これより当寺は幕府の厚い庇護を受け、将軍家累代の
位牌を安置しました。
(現在、本堂内に徳川将軍家位牌所として、家康公から12代将軍徳川家慶公の位牌が祀られています)
※上野白井藩主(こうずけしらいはんしゅ)
※荊沢村・水無村・土沢村(おとろざわむら/みずなしむら/どさわむら)
※朱印寺領(しゅいんじりょう)
寛保2年
(1742年)4月、庫裡を除く全建物を焼失し、延享3年(1746年)に再建されました。
宝暦12年(1762年)2月22日、今市宿大火で再び本堂はじめとする建物・宝物・記録文書などの
多くが失われ、御殿は再建されず本堂西北裏が御殿地として残りました。
※庫裡(くり)
文政年間
(1818〜30年)には、来迎寺(森友)・慈光寺(湯西川)・高声寺(芹沼)・浄泉寺(春日町)
・西光寺(川俣)・東光寺(町谷・現在は廃寺)・玄樹院(二宮町)の7ヵ寺の末寺を持ちました。
また境内には、当寺をめぐって宝林院・寿仙院・聖衆院などの堂塔がありました。
現在の本堂は開山500年記念事業として書院・庫裡・寺務所と合わせて大改修され平成9年4月に落慶しました。
※来迎寺(らいこうじ) 慈光寺(じこうじ) 高声寺(こうしょうじ) 浄泉寺(じょうせんじ)
西光寺(さいこうじ) 東光寺(とうこうじ) 玄樹院(げんじゅいん)
※宝林院(ほうりんいん) 寿仙院(じゅせんいん) 聖衆院(しょうじゅういん)
当寺檀家の方が、懐かしい写真があると持って来てくださった写真です。
撮影場所は如来寺境内の鐘撞堂でその他の詳細は不明ですが、おそらく大正9年頃のお写真だろうとの事です。
当時の様子を懐かしく感じて頂き、お楽しみ頂ければ幸いです。
【写真左】当寺檀家の方から『晋山式並び梵鐘供養記念』の写真をご提供頂きました。
新住職就任を祝した晋山式と、太平洋戦争時に、金属回収令により鐘を供出したため、
檀家の方々の呼びかけで、鐘を新たに作ることになり、その完成記念式も兼ねております。
増上寺のご住職をされていた椎尾弁匡大僧正もご出席下さった様子も見受けられます。(写真左中央)
現在でも、『平和の鐘』としてこちらの鐘を使用しております。
【写真右】稚児行列の様子です。当時の衣装の様子が分かり大変興味深い一枚です。
おそらく檀家さんや園児達だとは思いますが、詳細は今となっては不明です。
ちなみに写っている子達は、現在では60代くらいになっております。
幕府から如来寺へ発行された証文をご紹介致します。現在は栃木県が保存・管理を行っておりますが、
当寺にも資料として写真が残っておりましたのでご紹介致します。
【如来時領】
寛永9年 (1632年)、徳川家康の17回忌にあたり、3代将軍家光は日光社参に赴きましたが、
大御所秀忠の喪に服して日光には入らず、将軍社参に供する宿所に充てるため笠間城主
浅野長重・下館城主水谷勝隆らに命じて造営させた今市の如来寺御殿に滞留し、井伊直孝を
して代参させました。家光は4月16日から19日までの滞在期間中、4月17日(家康の忌日)
水無村15石5斗余、荊沢村13石9斗余、土沢村5斗余の都合30石を如来寺に寄進され、
御殿の維持に充てさせ、その後も社参の都度、宿泊、休憩所に供しましたが、4代家綱の代に
如来寺に下付しもちいられなくなりました。土沢村の5斗余の所領は、慶安郷帳以後みえませんが、
水無、荊沢両村合わせて30石の如来寺領は幕末まで続いています。如来寺に残る寛文8年の
水無、荊沢村の検地帳により幕府代官市川孫右衛門の代理掘沢瀬兵衛、如来寺代官栄玄、
今市名主安西六右衛門をはじめ町年寄が立ち合い検地を行ったことが明らかにされました。