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人間は 努力をする限り 迷うものだ(ゲーテ「ファウスト」)
今から約2500程前の古代インド歴2月15日に、お釈迦様はお亡くなりになりました。本堂左の奥に掛けてあるのが「涅槃図」で、真ん中に横たわっているのが、お釈迦様です。
実は、お釈迦様は二度涅槃を迎えられているというのですね。ということは二回亡くなったのか?そうではありません。涅槃とは「煩悩の火が消えた」ということをあらわしているのです。最初の涅槃はお悟りを開かれた35歳の時です。この時生きながらにして煩悩が生滅したのです(有余涅槃)
そして、お亡くなりになって、生理的欲求も無くなり、これを以て完全に煩悩が無くなった状態の涅槃を迎えられたです。(無余涅槃)
亡くなった場所はインドのクシナガラの森の中でした。2本のサーラという木の間に、横になって沢山の人々や、動物たちに囲まれて亡くなられたのです。御歳は80才でした。
お釈迦様にはアーナンダーというお弟子さんがいました。亡くなる前にお釈迦様はアーナンダーに言いました。
「わたしは、これから死んでしまうが、悲しんではいけない。どんなものでもいつかは壊れて無くなる。人間も誰でもいつかは死ななければならない。あなたは今まで私をたよりとして生きてきたが、これからは自分をたよりとして生きなければならない。それには、自分をしっかりと鍛えて、困ったときは私の教えを思い出し、悟りを開けるように精進努力しなさい。」とおっしゃいました。
人間は、生まれる時も死ぬ時も一人であるということは逃れられないことです。やはり最後に頼れるのは自分自身であるし、他の人に頼らず生きていけるようにしなければいけない。そして、悟りを開くためには、日々のたゆまぬ精進努力が大切だということをお釈迦様はお諭しになったのでしょう。
今月の言葉は、ゲーテの戯曲「ファウスト」の中の台詞なのですが、あらすじによると、努力の限りをつくしても思うような結果が得られない事に悩み迷う学者がファウストという人のようです。たしかに私たちは1つのことに一生懸命に取り組んでいくと、どんどんハードルが高くなって、終わりのない深みにはまったり。無理難題に突き当たってどうしたらいいか分からなくなったり、それによって集中力がとぎれたり、やる気が無くなったりして迷いや悩みが深まることがあるということでしょう。
迷いや悩みが生じるということは努力している証拠で、つらくても充実している時間なのかもしれません。もし、どうでもいいや、適当にやればいいやということなら、迷いも悩みも生じないので、それは努力が足りないということでしょう。