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仏を彼岸(ひがん)に拝(おが)むとき 仏は此岸(しがん)におわします
9月には、秋の彼岸がやってまいります。当山でも、本堂にお参りする方、お墓参りに来る方がたくさんいらっしゃいます。
多くの方は、彼岸とは、「死んだ人が行くあちら側の世界」であり、あるいは、ご先祖様に感謝し、ご供養する時節であると捉えている方が多いと思います。それは少しも間違っていません。しかし、彼岸は、元々「到彼岸(とうひがん)」即ち「彼岸に到る」あるいは「渡る」ことであり、こちらの岸は此岸(しがん)といって、迷いや苦しみの世界で、彼岸は、苦しみや悩みのない安らぎの世界を意味しています。
すなわち、彼岸とは死んだ後行く世界ではなく、本来は、生きているうちに諸々の苦しみから解放されて、平穏な安らぎの境地に達することを表した言葉なのです。
しかし残念ながら、私たち凡夫にとって、生きながらにして彼岸に到ることはいわば悟りを開くことですから困難を極めることでもあります。ですから、法然上人は、私たち誰にでもできる行としてお念仏をお示し下さったのです。自らの煩悩にさいなまれ苦しむわたしたちは、お念仏を称えて暮らしていれば、そのままに極楽浄土に往生させていただき、そこで、阿弥陀様のもとで安らかな彼岸の境地に向かわせていただけるのです。
私たちは、十万億土の遠い西方極楽にいらっしゃる阿弥陀様にお救いを求めお念仏をお唱えしているのですが、本日の勤行式の中にあるように「いつわりの心なく至誠(まこと)の心もちて疑いなく愛(ねが)いもとめ」た時、阿弥陀様はいつの間にか、目には見えないけれど、此岸にいらして、私たちの近くで見守って下さると思います。